2013年5月28日火曜日

コーマン帝国

WOWOWでロジャー・コーマン氏を取り上げた映画『コーマン帝国』が放送された。偶然ジャックニコルソンがインタビューに答えるシーンを見ていて、録画ボタンを押したのだが、後で観返すと、ジャックニコルソンさんの表情がとてもいい。

オスカーで特別功労賞を受賞したコーマン氏だが、式典に参列していた大勢のセレブの中から時折ジャックニコルソンさんの絵が抜かれており、それがまた実に嬉しそうな表情。

ついにオスカー像を受け取るシーンになると、正面から映し出されたジャックニコルソンさん、心底嬉しそうで見ているこっちまで嬉しくなってくる。

本当に素顔が撮れてるいい映画だと思った。

次の放送は、7月2日午前5時25分。お見逃し無く!

2013年5月25日土曜日

千のナイフ

さて、例の『〜(地獄へ)〜』の本で知った、『千のナイフ』を借りてきた。

坂本龍一さんのファンが自称坂本教信者というのがうなずける、ちょっとヤバい感じの音楽。

そのヤバさが違和感なのだろう。これは普通の音楽、身を委ねたくなるような、自分に対峙するものではなく、その中にとけ込んでしまいそうな危なさがある。

自分の音楽とは、これを聴いて初めて思ったが、あくまで自分と共鳴するものだ。常にそこに音楽と同時に自己がある。

ところが千のナイフは、何かこう、苫米地教授の作っているような、聴くと女性ホルモンが分泌されるとかいう科学的な仕掛けでもあるのではないかと思いたくなるような、よく考えられた環境のようで、呪文に近い。

共鳴ではなく、一体化。自己を喪失するのだ。

坂本さんの最近の韓国だったか?のUSTを聴いたときは、メルヘンだと思ったが、それはつまり、ある種のトリップを誘発するかのような、魔術的なものに由来していたのかもしれない。

※念のために書いておくが、魔術的と魔術とは異なる。坂本さんがウィザードだというつもりはない。

ちなみにこの曲の中で、渡辺香津美さんのギターが炸裂するのだが、聴いてすぐに分かってしまう、あの個性の強さは並々ならぬものがあり、ギターが入って来ると、そこは一瞬渡辺香津美の音楽に変わってしまう。なのにも関わらず、そのフレーズは、どうも坂本教信者と言わんがばかり。トリップしているのだ。もしかすると香津美さんも信者なのかもしれない。だから数少ないフォローに坂本さんが入っているのかも。

と穿った見方をしてしまうが、それとも香津美さんのギターにつられてトリップしたのは自分のほうなのか。

やばいやばい。

きっと風邪をひいているせいだろう。

2013年5月23日木曜日

ジャズと自由は手をとって(地獄に)行く 2

ジャズと自由は手をとって(地獄に)行く

大分具合が良くなりつつあるのを実感しつつ、机の上に放り出されている本を再びぱらぱらとめくると、"MIDI"の文字が目に留まる。

なんだろうこれは、とこの節の頭を探すと、なんと、我が音楽理論の先生、「菊地成孔」だった。菊地さんと大谷さんは盟友だそうだが、JAZZ DOMMUNE以上に印象的なのは、菊地さんがパニック障害だったときに、大谷さんが相当支えていたという話。ググっていたらここに動画がアップされていた。

面白いのはこのブログを書いてる人が、「しゃべりだすまで廃人のようだった」と述べている点。

いや、そんなことないですよ。

実際自分も最前列で観ていたのだが、まったく、そんな風には見えなかった。いつものようにきょとんとした何食わぬ余裕の風貌で、しかしそれなりにオシャレな格好をして、ふいっとコンビニにでも行ったのだろうか、アイスを買ってきて食べだすという、相当暑い日だったのは確かだが。

初めて見る人にはそんな風に見えるのだろうか。

いや、そんなことはないでしょう。

この二人が夫婦だとしたら絶対菊地さんが嫁さんだと思う。

まあそれはいいとして。

熱が下がったとはいえ、まだクラクラするので、読もうかどうしようか迷っている。先にちょっとコーディングして、だな。



ジャズと自由は手をとって(地獄に)行く

自分はJAZZ DOMMUNEのファンだ。大谷能生さんを知ったのは、『憂鬱と官能を教えた学校TV』(フジテレビNEXT)でだが、そこでの存在感の無さは、あの番組自体がまるでペン大の授業のようだから(つまり菊地さんの授業だから)だと思う。加えて菊地さんから放たれている態度のデカさ。実際、目に見えて態度がデカいわけではないのが、そう感じさせる何か雰囲気があるのだろうか。よく分からない。

一方、JAZZ DOMMUNEは、DOMMUNEで不定期に開催される、なんだろう? 音と絵をごちゃまぜにしたお遊びとでもいえばいいのだろうか。全体がいいわけではなく、その中に時折偶発的に見え隠れする価値が面白い。ある意味、生物史と自己相似形ではないだろうか。

その中での大谷さんは、実に、その価値を支えるキーパーソンとなっており、むしろ菊地さんが一歩引いて、大谷さんに舵を取らせている感がある。もしくは菊地さんがターンテーブルで、大谷さんがその上で回る寿司、と言った方が良いだろうか。

何れにしても、毎回そんなものがあったのか!というネタのオンパレードだが(ただし絶対数はそれほど多くない)、とにかく面白いというより貴重な体験が出来るというところに自分は価値を置いている。

そんな大谷さんの音楽面での活動は数回しか見ていないが、サックスの独特な音がなかなか魅力的。とはいえ、正直に言えば、それ(サックスの音を除いた曲自体とかパフォーマンス自体とか)は自分にとっては(すくなくとも今のところ)あまり重要ではない。

で今回、『ジャズと自由は手をとって(地獄に)行く』がこの5/21に発売され、その発売記念イベントで、この本を台紙にして何かやることによって、実際本に何か書き込まれ、ユニークになるというイベントがあるということと、氏の本も全く読んだことが無かったので、これを機会に買ってみた。

だが突然の高熱を発してしまい、イベントに行けるかどうか、微妙だ。この前美学校に見学に行ったときも、その後軽い打ち上げ的な場がその教室であったのだが、大谷さんは別件で先に帰ってしまい、具体的に「メディアクリティークラボ」について、伺うことが出来なかった。

その初回の授業が今日5/23にあるのだが、せっかく見学できるというのに、これも発熱の影響で断念せざるを得なそうだ。

どうも嫌われてるらしい。



坂本龍一編:
で、この本、当然、菊地さんによるとダダだという大谷さんの書を、頭から順に読む気などさらさらない。パラパラっとめくって目次にもどり、仕様書なるあとがきを読んで、もう一度目次に目をやると、”坂本龍一"という文字が目を引いた。

とにかく、自分は坂本龍一さんの音楽があまり好きではない。目を引いたのはだからだが、言葉で説明するのは難しい。まず最初にKILYNですら自分の中には入ってこなかった時点で何かあるのだろう。

で21ぐらいのときだったと思う。当時知り合った友人が坂本龍一さんの信者だというので、推奨アルバムを聞いてみたのだが、これがまた酷かった。タイトルも忘れてしまったが。でその次に聞いたのが「戦場のメリークリスマス」のあの曲だ。これも何とも言えない違和感があった。でその次がCMで一躍有名になった癒し系のピアノの曲。これもドラマの挿入歌っぽくてなんだかなあと。

そんな偏見を持った自分が、坂本龍一さんを濃密に理解されている大谷さんが解説したパートを読んだところで、ここには書けないような非難囂々しか出てこない。

恐らく、こんな風に音楽を自分に語った所でしょうがないのだ。音楽は音楽。観たり聴いたり演奏したりするもので、プロがその裏でどんなに凄い技を駆使しているか、などというのは、それ自体に興味がなければ(直接的には)相対的な価値は出てこない。

例えば面白いアプリがどうやって作られているか、とか、そこにどんな凄い気づきや発見的要素があるか、なんてことはどうでもいい。面白いか面白くないか、必要か必要でないか。まあそういったところだ。

とはいえ、『千のナイフ』はあればレンタルして聴く必要があるだろうなあ。それで考えが大きく変わる可能性もなきにしもあらず。

なんせプリンスでさえ、けなしたり絶賛したりだから。







2013年5月20日月曜日

iOSのスレッド

iOS Developer Library : MIDI Services Reference より引用

  "readProc will be called on a separate high-priority thread owned by CoreMIDI."

 high-priority thread。

常々スレッドがどうなっているのか、よく分からないまま後回しにしているがなるほど。WindowsにしろUnixにしろ今まで使う度に適当にいなしてきたが、久々に裸で割り込みレベルに合わせて作り込んで来た日々をちょっと思い出す。

後で真面目に調べよう。iOSのスレッド。

2013年5月19日日曜日

渡辺恒雄読売新聞会長兼主筆の違法行為を警視総監が指示(週刊文春より)


とある何気ない新卒の社員の何気ない質問に対する、質問者の心を考えない残念な回答。完全に自分で考える能力を失っているのではないだろうか。まるで大手新聞信者さながらだ。

ということで実は、「Yomiuri Onlineのコメントにかいま見る読者層」というタイトルでメモろうと思っていたのだが、

「ところでナベツネ氏が名誉毀損で告訴されたあれはどうなっただろ?」

とググってみたら、それとは関係ない驚きの記事を週刊文春Webで見つけてしまったのでメモ。

要は免許更新の際、違法なズルをしたらしいのだが、問題なのはここ。

(以下週刊文春Webより引用)

警視総監から「できる限りのことはやってやれ」と指示を受けていた

(以上引用おわり)

渡辺氏の素行はさておき、警視総監のそれは、明らかに職権乱用ではないか。ちょっとした言葉のあやで大臣なら直ぐクビになるのだから、警視総監も即刻退任してもらいたいし、そもそも検察が然るべき訴えを起こすべきではないのか。

これに対し、J-CASTニュースによると、

(以下J-CASTニュースより引用)
読売新聞東京本社は、週刊文春側及び記録の盗み出し・捏造等にかかわった人物に対し、刑事、民事両面から法的措置を適宜、講じていく所存です

(以上引用おわり)


だそうだ。

ところがこのJ-CASTニュースには文春への回答と矛盾する記述がある。

(以下J-CASTニュースより引用)

2004年も01年も所定通りに教習所に出向いて高齢者講習を受けており、「警視庁に不正な依頼をしたことも一切ない」「不正行為の事実はまったくない」と完全否定した。

(以上引用おわり)


これに対して文春には、

(以下週刊文春Webより引用)

当時の警視総監、交通総務課長は日記の記述を否定。渡辺氏、読売新聞は次のように回答した。

「なんか、おじさんの話を1時間くらいだったかな。あれこれ話を聞いて。そんな目くそ鼻くそのこと、何を言っているのかね」(渡辺氏)

 「(2004年の免許更新の際は)待ち時間等の都合をつけてもらったので、比較的短時間で終わったが、一般的にも待ち時間等がなければ短時間で済むと聞いており、質問に『3時間以上が必要』とあるのは実態と食い違っている。警視庁幹部ら警察関係者に何かを依頼した事実は一切ない」(読売新聞グループ本社広報部)

  道路交通法施行規則には、〈高齢者講習の講習時間は、三時間とすること〉と明記されており、今回改めて警察庁広報室に確認したところ、「高齢者講習は、3時間というのが決まりです。これは2004年当時であっても変わりありませんし、これに例外を認めるような規定もありません」と回答している。

 (以上引用おわり)

と答えている。

いずれも読売自身が3時間の講習を受けていないことを自ら認めているではないか。そしてそれは違法であり、例外を認める規定はない、と警察広報が回答しているのだ。

読売のいう怪文書の真贋はさておき、自らが認める内容において、違法行為があったのは事実なのであり、それを違法でないとしている時点で、新聞社としての資格が無いと思って何か問題があるだろうか。


また、この事件の中で、事実だとすれば、最も罪が重いのは、

「警視総監が便宜を図るよう指示した」

ことだろう。であれば、新聞社たるもの、

「百歩譲って一民間企業のトップである渡辺ごときがあらぬ風評を受けるのはまだしも、こともあろうに世界に冠たる法治国家である日本警察のトップである警視総監が罪を犯したかのような事実のねつ造は断じて許せない」

などといった、最も重要な問題に焦点を当てるべきだろう。そうすれば他のことなど、撮るに足らない、それこそ渡辺氏が言ったとされる、目くそ鼻くそレベルで済ましたくなる印象を与えることが出来ただろう。

とは言え、高齢者教習は、悲惨な事故の教訓から生まれた法規制であって、目くそ鼻くそなどではない。文春側は、この一見軽微な狡と思われがちな高齢者運転に対する規制が、どのような悲惨な社会問題をはらんでいるのか、触れた上で、渡辺氏の言動が如何に新聞社のトップとして相応しくないものであるか、糾弾すべきだった。

ただしWeb版を見ただけなので、雑誌版にはそこまで追求があったのかもしれないが、もしそうだとしたら今のご時世、ちょっと、それはそれでおかしいと思う。


この記事はもう半年前(2012年11月)なので、本当に刑事告発されているのかどうか、白黒ついていてもよさそうなものだが、検索してもそうした事実は浮かび上がってこない。

(2013/5/23追記)
警察への見返りだろうか。

武井壮さんが車で信号待ち中、バックしてきた警察車両に車の横に追突されるという事故があった。この事故で武井壮さんの車、ポルシェはドアだか車の横だかが凹んだとのこと。武井壮さんは気丈に「自分の身体は超頑丈なのでまったく怪我はありません。当たったのが車で良かった。生身の僕に当たっていたら、警察車両が大破していたでしょう」というようなこと(この通りの文言ではない)を冗談混じりに語っていたらしいが、これを夕方の報道番組「news every」内で18:30とか18:40とかぐらいの時間から、10個ぐらいのニュースをその一覧をバックに出しつつ、1つづつ紹介して行くコーナーの中で報道したのだが、そのタイトルがなんと、

「武井壮さんポルシェで事故」

である。

これではまるで武井さんが事故を起こした責任者と言わんがばかりだ。その上、肝心な「警察」の文字は何処にも入っていない。

無論、ニュース本文では先に述べた冗談混じりのコメントも含め、それなりの確度で報道はした。しかしこのニュースタイトルは、このコーナーを通してバックに一覧として表示され続けるわけで、例えば晩飯を食いにラーメン屋さんに入り、このタイトルだけを観た人も恐らくいるだろう。そういう人たちには、まるで正反対の誤報である。

そもそも読売新聞のTV局なのであるから、娯楽番組はいざ知らず、ニュース報道でこうした誤報まがいのタイトルを掲げるなど、あり得るだろうか。

それどころか、渡辺氏の不正問題のタイトルに関しては、読売新聞側が、タイトルが誤解を有むとして講義し、文春側が黒塗りで訂正した、と自慢げに話しているではないか。

つまり、見出しの重要性を十分認識し、自らが被告発者の場合は猛然と抗議しているのだ。これを自分本位と言わずして、何と言おう。報道の客観性などみじんも無いと言わざるを得ないではないか。

もっとも渡辺会長にかかれば、こうした些細な操作など、目くそ鼻くそなのかもしれないが。であれば、きちんと報道したまえ。もっと、鏡のように、美しく、一点の曇りも無く。





2013年5月16日木曜日

関数の構文が分け分かんない件

例えば、MidiSend関数は次のように宣言されているのだが、


extern OSStatus
MIDISend( MIDIPortRef port, 
MIDIEndpointRef dest, 
const MIDIPacketList * pktlist ) __OSX_AVAILABLE_STARTING(__MAC_10_0, __IPHONE_4_2);


え?この構文(関数パラメータの括弧とじと文末のセミコロンの間)って何?ということで探しまわること数時間。その言わんとしている意味は何となく分かるのだが、書き方が許せないをモチベーションに、重い腰を上げてStackoverflowで検索してみると、


http://stackoverflow.com/questions/4924285/how-to-deprecate-a-method-in-xcode

にその答えが。

そのものズバリの話ではないが、この回答欄にある、deprecated用のgccの構文というところが答え。このケースでは、これを呼ぶんだとき、deprecated条件に一致すると、warningが出力される。

llvmじゃないの?と思ったが、歴史の古さからはgccだろう。

それはいいとして、そもそも例えば、

__AVAILABILITY_INTERNAL__IPHONE_6_1

のような定義がどこに定義されているのか、見つからない。__OSX_AVAILABLE_STARTINGが定義されている、"Availability.h"を見ても特に何も#includeされてないようだし。。と思ったが、よく見ると、先頭ではなく、中途半端なところに、"AvailabilityInternal.h"が#includeされていて、その中に__AVAILABILITY_INTERNAL__IPHONE_6_1などがずらずらと定義されており、

__attribute__((availability(ios,introduced=4.1,deprecated=6.1)))

のように書いてあった。

まあそれにしても、勝手にこういう構文が追加になって人が持ってたK&R読んだことがある自分にメールの1つもよこさないってどういうこと?

無限というパラドックス

パラドックスとゼノン:『アキレスと亀』あるいは『二分法』

で気づいたことがある。

実はこれ、無限というパラドックスに問題自身が嵌っているのではないかと。

なんでもいいが、例えば、0.0000001を無限に足すと、無限大になる。どんなに小さな値であろうと、「同じ」値を無限に足せば、無限大になると言えるだろう。ところがここで最も小さい値を考えてみる、そう、無限小とでも呼びたくなる値だ。小数点以下に無限にゼロがつづいたその次の値が1になるのだ。だが、無限に続いたらその次は無い。つまり、ゼロの次に大きな数というのを、無限は示せないのだ。

言われてみれば分かり切ったことだが、無限というのは動的であり、静的でない(同じことを繰り返して行っている。。)。つまり、無限にゼロを並べようとすると、永遠に並べ終えることが出来ないのだ。しかしこれを「無限」という関数で表現すると、あたかも静的であるように示すことが出来てしまう。

ゼノンの『二分法』で、2点間の距離が縮まって行くことをイメージしながら、それが無限に小さい値をとると、心理的には不思議なことが起こる。先に挙げたように、どれほど無限に小さい値であろうと、その値を無限に足せば無限大になるはずなのに、積算といおうか、『二分法』のように積み上げて行く足し算を行おうとするとき、次に足す値が前の値より小さくなる場合は、いつまで経っても無限大にならないのだ。

それはおかしい。

だって、無限に小さい値であろうと、無限に足せば無限大になるはずではないか?
そして次に足すべき値は、常に無限に小さい値よりいくらか大きいはずではないか?

ところが、次に足す値が、前の値より小さいため、無限に足しても、決して無限大にはならないのだ。

もっとも小さい値が存在するとして、それを無限個足し算すれば無限大になるのに、その最も小さな値が(無限が動的であるために)いつまで経っても決められない。

そこが一見パラドックスに見える所以ではないだろうか。

このことは、実は物理的な世界が、否が応でも無限小ではない最小値を持っていなければならないという、非常に重要なことを示唆している。つまり、プランク定数が正しいか否かに関わらず、最小値は存在する。この世はデジタルで無ければ存在し得ないのだ。





2013年5月13日月曜日

渡辺香津美トリオDX

見逃したスパイスオブライフの敵討ちとばかりに、1st/2nd両ステージを観ることが出来た。行く前から「観戦」だと思っていたが、確かにそういう面も多かったと思う。これだけ世界屈指のテクニシャンが3人揃えば、火花が散らないほうがおかしい。

2ndのほうが場所的な問題かもしれないが、良かった。

それにしてもバージルは表情もそうだが、昆虫のような素早い動きと、花火のような爆音で、メカニカルというかSF的というか宇宙人的というか、思わず「てめえうるせえぞ!(笑)」と心の中で笑ってしまった。

情緒とは真反対だが、ここまで堂に入っていると、これはこれで不思議と素晴らしさを感じるから不思議だ。

スパイスオブライフからは、『Period』に始まり、自分が必死に練習しても弾けなかった『City』や大好きな『JFK』を演奏してもらえて「やったね!」という最高の気分だったが、残念ながらジェフがその『City』でソロを取ってくれなかった。もちろん弾いたとしてもレコード通りに弾くはずは無いが。


その僻み根性からか、音程が聞き取り辛かったせいか、昔よりビジネスライクにちょっと感じてしまった。ぜひともライブ盤を出してもらって、このつまらない思い過ごしを払拭して欲しい。

それか、きっとBlueNote東京さんが音や映像を撮っていると思うので、もしそうだとしたら、BlueNote東京を買う、という手もある。自分の手の内に「今」あるわけではないが。


気づいたことだが、先月のサテンドールのJAZZ回帰トリオと同じような曲で、それを考えるとJAZZ回帰トリオの凄さを改めて痛感した。あれもライブ盤を出して欲しい。特にあれを弦バスで弾いていた井上さんの凄さ、あれを後世に音と映像で残さないのは、ある意味罪ではないだろうか。






2013年5月7日火曜日

グッドテイスト メモ

駅前の茶月、生臭すぎ。
鮮度管理、一体どうなってるのか。

これじゃあ食べ物を商売にしている気概がゼロだと思もわれても仕方ないだろう?
全く、お腹の具合が悪くなってきたし、
空腹に任せて無理して食べるんじゃなかった。


Webサイトを見ると、「茶月の安全宣言」のページが、

「現在作成中です。」

に。

笑わせてくれる。。。

じゃあ一言言ってやろうと、「お問い合わせ」のページを見るもまたまた、

「現在作成中です。」

よし分かった。
明日お客様フリーダイアルに連絡してみるよ。

2度目が絶対無いためのメモ。


2013年5月3日金曜日

パラドックスとゼノン:『アキレスと亀』あるいは『二分法』

続きは、"無限というパラドックス"にて。


パラドックスとは1つの事象に対する2つの相反する見方があるものを言うと思っていたら、日本語では「逆説」と訳されるという疑問にぶつかる今日。

そんな中、Wikipediaで奇妙な解説に出会う。奇妙とは自分から見てという意味であって、客観的な意味ではない。

以前から、アキレスとカメについて、何もパラドックスは無い、というのが自分の持論だったが、どうも内容を間違えて吹聴していたものを読んで覚えてしまっていたのか、Wikipediaに書かれた内容が信頼の置けないものなのか、とにかくWikipediaに書かれた内容と違って覚えている。

しかもその自分の記憶というのが、Wikipediaに書かれた、『二分法』と『アキレスと亀』を足したような内容だからなおさらハテナである。

つまりもし、Wikipediaの内容が正しいのであれば、『二分法』も『アキレスと亀』も同じようなパラドックスであり、わざわざ2つに分ける必要があるのか、と思えて仕方が無いからだ。

とにかく、どちらもパラドックスなど無いのは一緒なので、それぞれ何故パラドックスではないのか、パラドックスとは言えないのか、メモしておく。

『二分法』(以下Wikipediaのゼノンのパラドックスより引用)
地点Aから地点B0へ移動するためには、まずAからの距離がAB0間の距離の半分の地点B1に到達しなければならない。さらにAからB1へ移動するためには、Aからの距離がAB1間の距離の半分の地点B2に到達しなければならない。以下、同様に考えると、地点Aから地点B0へ移動するには無限の点を通過しなければならず、そのためには無限の時間が必要である。よって、有限の時間で地点Aから地点B0へ移動することは不可能である。
(以上Wikipediaのゼノンのパラドックスより引用)
まず、ここで言っている「無限の時間」。これが一体何年なのか。実はその殆ど全てが限りなくゼロに近い時間なのである。物理的にも数学的にも全くといっていいほど「経過していない」のである。

普通、ただ単に「無限の時間」と言われれば、100万年は有に超える永遠に長い、悠久の時間であると同時に、「有限の時間」より遥かに長い時間であることを想像させるし、実際、「無限の時間」は「有限の時間」より長ければこそのパラドックスだ。

では「有限の時間」とは何だろう。これは当然有限なのだから、どんなに短くてももちろん構わない。先に示したように、「無限の時間」の殆ど全てを構成する限りなくゼロに近い時間より更に短い時間だと言っても確かに構わない。構わないが、逆にどんなに長くても構わないわけだ。つまり、単に「有限の時間」と言えば、100年はおろか、0.1秒でさえ極めて妥当な「有限の時間」の一つであり、この問題の「地点Aから地点B0へ移動する」ためのものとして、十分代入可能な時間であるはずで、それがその物理的な距離との関係によって、「地点Aから地点B0へ移動する」ことが可能な有限の時間を代入することに何ら問題はないはずだ。

さもなくば、問題を、

「『無限の時間』として登場する時間よりも短い『有限の時間』で地点Aから地点B0へ移動することは不可能である」

のように変えなければならないが、これでは何らパラドックスではない。

問題は言葉によって説明されており、いい加減な意味で「パラドックス」といったところで、「EPRパラドックス」とは訳が違う。

『アキレスと亀』(以下Wikipediaのゼノンのパラドックスより引用)
「走ることの最も遅いものですら最も速いものによって決して追い着かれないであろう。なぜなら、追うものは、追い着く以前に、逃げるものが走りはじめた点に着かなければならず、したがって、より遅いものは常にいくらかずつ先んじていなければならないからである、という議論である。」アリストテレス『自然学』 あるところにアキレスと亀がいて、2人は徒競走をすることとなった。しかしアキレスの方が足が速いのは明らか[2]なので亀がハンディキャップをもらって、いくらか進んだ地点(地点Aとする)からスタートすることとなった。 スタート後、アキレスが地点Aに達した時には、亀はアキレスがそこに達するまでの時間分だけ先に進んでいる(地点B)。アキレスが今度は地点Bに達したときには、亀はまたその時間分だけ先へ進む(地点C)。同様にアキレスが地点Cの時には、亀はさらにその先にいることになる。この考えはいくらでも続けることができ、結果、いつまでたってもアキレスは亀に追いつけない。
(以下Wikipediaのゼノンのパラドックスより引用)

これは全く『二分法』と同じである。アキレスと亀の距離が、ある時点の半分づつに縮まっていく場合について考えればいい。アキレスと亀の各自の速度はアキレスのほうが速いとしか前提されていないので、どんな速度差でやっても同じことだ。

この二分法的に見た『アキレスと亀』が自分が覚えていたものである。

従って説明は全く同じになるのだが、強いて言えば、「いつまでたってもアキレスは亀に追いつけない」の「いつまでたっても」は100億年よりさらに長い時間を指している言葉だが、だとしたら間違いである。この「いつまでたっても」は0.1秒にすら遥かに及ばない、短い時間なのだから。

アキレスが亀を追い抜く直前を永遠に限りなくゼロに近い時間に閉じこもって観察した観察者の脳内でしかあり得ないことであり、それは物理的には不可能だし、数学的にも言葉として問題がある。

要するに、パラドックスでも何でも無いのだ。

思いついたので、ちょっと算数的な補足をしておこう。
二分法で差が1/2になる根拠は何も示されていない。
つまり、前の距離とその次に観測する距離との相関関係を勝手に決めているだけだ。
であれば、その差は1/4でもいいし、8/11でもいいはずだ。

実際、二分法を4/5で言い換えれば、問題の冒頭は、

「地点Aから地点B0へ移動するためには、まずAからの距離がAB0間の距離の4/5の地点B1に到達しなければならない。」

となる。ほら、すでに問題の冒頭で半分を超えている。

どのような値を取ろうと、その差が「1より小さい」場合、
永遠にその中間地点を観測することを想像することはできる。
だがその差の設定に何ら根拠が無いのだから、
どんな距離差でも取る事ができる。

そう、「1」でもいいのだ。

さらにこれが『アキレスと亀』の件であれば、
最初のアキレスの位置をA地点、
亀の位置の遥か先をB0地点とするなら、
その差は1はおろか、2倍でも10倍でもいいのだ。

然るべき物理条件が提示されれば、
どんな場合でも結果として得られる。

ただし1未満の値の場合は、
プランク定数以下の距離に達した時点で、
敢えなく破綻してしまうだろうが、
ここではそんなことを持ち出すまでもない。
時間が止まるとでも思えばいいし、
発見されていない素粒子未満の世界があると思ってもいい。

しかしだ。

この問題で大事なのは、それらがどれも、まったく、

「パラドックスではない」

ということだ。


(2013/5/19追記)
もっと簡単なことを思いついたのでメモしておく。
二分法における差が無限的に小さい、例えば1/(百億の百億乗の..を気が済むまで繰り返す)とかいう値の場合、アキレスと亀の間は、相当しばらく微動だにしないだろうし、その差は永久に変わらないと言えるだろう。そしてそれは、いわゆる非ユークリッドな世界と中学の数学で教わった(しかし実際ユークリッドも非ユークリッドも自分はよく知らない)、例えば10cmの直線と2cmの直線があるとして、どちらもその中に点は無限に存在するのだから、どちらも同じ長さであるとか、無限 X 無限 = 無限 というおかしな等式になるとか、そうしたことの類いと基本的に同じ世界だと思う。