2012年9月29日土曜日

羅生門は2020年に著作権が切れる?

映画の著作権保護期間は、公開から70年らしい。とすれば、羅生門@黒澤明監督は2020年に自由に斬った張ったすることができる! 素晴らしい。

なぜ羅生門かと言えば、例によってまたWOWOWでやってたときに、バーンと1950年という年号が表示されたときにピピン!と来た次第。

最近著作権のことで悩み過ぎで、こういうことに敏感になる今日この頃。(不謹慎だが)Led Zeppelinのメンバー全員が天国への階段を昇って70年後に、良い感じな人生のピークを迎える人たちのなんと羨ましいことか!

ショパンやリストは、まさに今、そういう時期にあるのか。いや〜創作って本当に素晴らしいですね!

2012年9月25日火曜日

Raul、元気でやってるね! 2ゴール。

 
このビデオのタイムラインで、2:08と3:58。Al Saddのビデオはどれもゴールシーンをいろんな角度から何度も繰り返し流す。くどいといえばくどいけど、ファンにとっては色んな角度で観れるので嬉しい。もっと前からAl SaddのYouTubeは観ていたけど、あまりにRaulらしいピンボールのようなゴールと、華麗に抜いた左足だったから貼ってみたよ。

YouTubeも再生ポイントをURIで指定できるといいのに。



2012年9月24日月曜日

悲劇


Long Tail World ホームレスと犬:Homeless Man's Dying Wish: Dog Reunionより

いろいろ考えさせられた。

NYPDのアホが末期のガンならぬ、銃依存患者だということに異論は無いだろう。人間の恥と罵るのは簡単だし、誰だって第一声は「何で犬を撃つの!!!?」に違いない。だが、にも関わらず、ピットブルという犬種の置かれた状況や、恐水病に対するパニック、命がけの割に合わないカップという仕事、等々、信じられない光景に対して、何か理にかなったものを見つけようとしてしまう。

Happiness is a warm dog. ピットブルはスヌーピーにはなれない。
Happiness is a warm gun. 撃った後の銃の温もりだけがホッとさせる。
Happiness is a worm gun. 虫けらを撃ち落とすのも楽じゃない。


悲劇。

ガンで亡くなる前日に、人生の最後のパートを共に過ごしてきた同志が再会を果たし、こんなにも幸せそうな顔をして抱き合う姿を見て素直に、「よかったねえ」と、寅さんだって言うに違いない。でも本当に良かったわけじゃない。もう二度と会えないのだ。もっと幸せになれたのではないだろうか。第一、自分は愛犬と一緒なら、車で生活することも厭わないだろうか、もしこんな最後を迎えられるなら。答えは今イエスではない。だがこの美しすぎる写真の前に、理屈も屁理屈も役に立たない。

あるとき例によって下らないTVドラマを観ていると、ネスがこう言う。「人は誰でもいつか死ぬ。問題はどう生きるかだ。」

ここに映し出された美しい姿は、一見、どんな最後を迎えたかを映しているように見える。しかし実際には、彼らがどう共に生きてきたか。それが映し出されているのだ。それは(彼らのその後が分かっていないものの)撃たれてしまったピットブルと飼い主も同じだ。



2012年9月23日日曜日

Jaco + KAZUMI


Black Market は完全にKAZUMI Marketだ。このとき自分は19歳。あの聞き逃した来日公演が今、蘇ってくれたわけだが、ミキサーから取った高音質は、まるで一発録りのスタジオ録音さながら。どこまで凄い人達なのか。マイクスターンに感謝。彼はインタビューでもKAZUMIのように弾けるようになりたいと、香津美氏への賛辞を公言憚らないが、こうして初めてJAZZ界の世界的スターと競演して、その言葉に嘘がないことがはっきり分かる。世界的な日本人はいろいろいらっしゃるけど、ジャズギタリストの日本代表は、渡辺香津美。まあ別に代表かどうかはぜんぜん関係ないんだけどね音楽は。

Jaco Pastorius WORD OF MOUTH BAND 1983 JAPAN TOUR featuring KAZUMI WATANABE


2012年9月22日土曜日

プログラムの著作権と保護されないはずのアイディア

最近、著作権で悩んでいるのだが、いろいろ調べていると設計図に著作権が認められないケースがあるという判例(地裁なので最終判断かどうか分からない)を目にし、ますます悩んでみているところ。

弁理士協会さんが無料相談をしてくださっているので、お言葉に甘えて(ちょうど空きがあったので)電話で少し相談させて頂いた。もちろん15〜30分程度の短い時間だったので、根本的に解決する話ではないのは承知の上だが、結局アイディアが特許でなければ保護されないことに問題があるのではないか、特許ほどお金をかけて独占せずとも、著作権同様にアイディアが浮かんだ時点から保護される法律を作って、本来コンピュータプログラムはそちらで保護すべきではないだろうか、という意見交換をさせて頂いた。

もちろんそんなことを1人叫んだところでどうにもならない話なので、設計図をプログラム化して著作権を発生させるのが一番現実的な解ではないか、というところで落ち着いている。

これは言うまでもなく自分の勝手な意見だが、先の例のように、あるアイディアを元に描かれた設計図があり、それはアイディア抜きには同じ物は書けないはずなのに、アイディアは保護されないし、表現上の記号や線は誰が書いても同じようになるから(しかも誰でも読めるように規格化された記法なのだから尚更そうだというのだから)、設計図に著作権を認めない、などということがあり得るのであれば、誰もが読めるよう規格化されたプログラミング言語で記述されたプログラムのソースコードに著作権など生まれようがない。コメントがあるじゃないか、というのなら、コメントを保護しているのか?ということになり、コメントの書いてないプログラムは保護されないからコメントを書こう!となるのだろうか。しかしプログラムは一般には、ソースコードの独創性の有無を問う前に著作権が自動的に発生すると認識されているのではないだろうか。

あるいは、詳細に規格化された部品で記述された設計書を機械翻訳し、自動的にプログラムを出力したとしよう。そしてその設計書は著作物ではないとする。そうすると設計書にも自動出力されたプログラムにも著作権は発生しない。ところが、だ。その著作物ではない設計書を見ながら手でコーディングし、プログラムを作成すると、なんと著作権が発生するのである。こうなってしまうと一体何の為の保護法なのかと言わざるを得ない。

元々プログラムを無断複製から保護するために、複製権のある著作権を利用したのではないだろうか。だとしたら、アイディアこそ保護すべきで、著作権同様、同時多発した同じアイディアは特許と違って両立するとすべきではないだろうか。

アイディアが保護されない点について、推理小説での話もさせて頂いたのだが、例えば殺人のトリックはアイディアに過ぎない。それを読み物としてどう面白おかしくスリリングに描くか、それが表現として保護されるべき部分になるはずだ。とすれば、人間関係や状況設定など、推理小説の骨格を支える様々なアイディアは全く保護されないのだから、著名な推理小説をまるまるパクって、表現だけ変えて、これはアイディアを盗用したのであって、著作権侵害ではない、と胸を張っていうアホがいたとしても、まかり通るのではないだろうか、という点については、かなり微妙で、実際、同じ構図の絵を2つ比べて、ぱっと見パクリに見えるものでも、侵害にならないびっくりするような例が演習問題としていろいろあるというから興味深い。


ラリーグラハムの新譜『Raise Up』を先取り


公式サイトで先行販売されていた新譜『Raise Up』をCD盤でゲットしていたのだが、数日前に早くも届いた。ラリーグラハム氏は自分のベースの師と仰ぐ人物なのだが、アルバムはPOWの入っているCD1枚しか持っていない。ただ時折プリンスにゲスト参加していたりして、それとなく耳にしていたのだが、ソウルミュージックというのだろうか、あまり聞くことが無い。もちろん嫌いではないのだが、リラックスしすぎてしまうせいじゃないだろうか。おそらく今の仕事から足を洗って、のんびり隠居生活でも送れるようになったら、どっぷりと浸かれるのかもしれない。

そんなわけでCDを買う動機は将来に取っておいているのだが、たまたまメールマガジンで新譜先行発売の案内が来たのを見ると、なんとプリンス参加とあるではないか! これは買わないわけにはいかない。

アマゾンで見ると9/25になっていたし、どうせならオフィシャルサイトで買いたい。でのんびり待っていたのだが、9/18に到着! 1週間も早く聞くことができた。ありがとうラリー!

曲も2010年来日公演で聞いたものより、数段音が輝かしく、善くも悪くも”磨かれた”音になっている。自分はこの磨かれた音がとても良いと思った。アルバムタイトルの『Raise Up』は、聞いた瞬間、「あ、プリンスだ」と思わせる独特の雰囲気があって素晴らしい。


2012年9月9日日曜日

GPLの矛盾

GNU Operating Systemのページ『GPLv3にアップグレードする理由』の中で、『プログラムの貢献者全員に、将来のGPLバージョンへの更新を決定する代理人を指定させておくことができます。』と述べているが、そうした場合、それはGPLv2と呼べるのだろうか?

例えば私がGPLv2のライセンス表示された部分だけを受け取ったとして、GPLv3には反対だったとしよう。そうすると自分が変更した二次著作物であるプログラムが、知らない間に勝手に自分が反対するGPLv3に書き換えられてしまうことになる。

では、予め、そのような誰々に変更を一任するといった条文を追加したとしよう。そうするとそれに従って、私は将来GPLv3に変更される条件を飲むか否かが問われることになる。そしてGPLv3に反対な私は、それを知っていたら、コードを変更することを放棄しただろう。つまり、GPLv2の精神に反して、GPLv2は制限されるのだ。

結果から見れば、これは明らかにGPLv2に制限を加えることになる。つまり、矛盾するのだ。確かに新しいバージョンは常により優れているという知見に立てば、結果的な問題は起きないと思いたいだろう。しかしそれが正しいなら、常に「GPLv2かそれ以上」とするだけで十分なはずで、わざわざ代理人を指名する必要もなく、従って代理人に万一のことがあった場合の代理人、そしてその代理人...という無限ループに陥ることもない(まあ、これについては万一の場合に合理的な社会的解決法があるのかもしれないが)。

他にもGNUは、Webページの変更を明示的に許諾していない。CC BY-NDでライセンスされている。彼らは、

わたしたちのミッションは、コンピュータ・ソフトウェアを利用、研究、コピー、改変、再配布する自由を維持、保護、促進し、自由ソフトウェアの利用者の権利を擁護することです。』

と言っておきながら、文書やイラストを変える自由については、維持、保護、促進、擁護しないわけだ。私はGNUの精神に適しているのはCC BY-SAだと思うが。この辺の自信の無さがもどかしい。

とにかく、自分は当面、CC BY-SAで行こうと思う。(ビジネス上の制約があるものを除く)