2012年5月29日火曜日

APIの著作権

最近、APIの著作権について問題になっている。

CPUの命令セットは著作権保護の対象になっている。ならばAPIも同じではないか。ところが、APIに著作権を認めると、それを呼び出すにも許可が必要になるからダメだという説があるようだ。だがCPUの命令セットを呼び出すプログラムが、CPUの命令セット著作権を侵害しているなどという話は聞いた事が無い。これは話をもっと分かりやすくすると、どういうことなのだろうか?

こういう説明はどうだろう。ウェブサイトのデザインについてだ。ウェブサイトのデザインは当然著作権保護の対象だ。疑問の余地はない。あるサイトAのデザインを丸コピーして、会社名だけ変えたぐらいでは、侵害は免れまい。しかし、サイトAをウェブブラウザで閲覧することは禁止されていない。というか、厳密にはサイトAの許可が必要なのだが、インターネット上にただ置いてあって、誰でもブラウザでアクセスすれば見れる状態にしてあることは、許諾しているも同然だと見なされているのではないだろうか。詐欺サイトのようなところが、うちのサイトを見たから5万円よこせ、とかいうのは、サービス利用料のようなものであり、それはまた別な法規制で排除されてきている。では詐欺サイトが閲覧者を著作権侵害で訴えることは出来るのだろうか? 「俺はただ文書を置いただけで、見せるとは言ってない。」そんな理屈は通らないだろう。場所が場所だけに。

つまり、デザインは保護されているが、それを著者が自分から見せている以上、見る事に対する著作権侵害はないのではないかと思う。

従って同様に、仮にAPIに著作権が認められたとしても、アプリケーションに対して公開されているAPIを実際に実装したプログラムを、公開されている方法でアクセスするプログラムが、著作権侵害になるとは思えない。

それから、FSFのAPI保護に関する声明を、我が物のように流用する輩がいるようだが、そういう奴らは、ソフトウェア特許を放棄しようなどとはしていない。都合の良いところだけ、FSFを持ち上げ、自分たちの利益にせんとするだけ。浅ましさここに極まりけり。

例えばWebAPIを提供している人達は、その著作権が認められず、クローンが作られてもいいと思っているだろうか。Twitterに聞いてみよう。


2012年5月20日日曜日

科学という名の宗教、オープンソースという名の宗教

この前不覚にもTVを見ていたら、ある学者の肩書き?を持つ人が「私は科学を信じるのね」というのを聞いて、アホか、と思った。何だろうこの違和感、と思って暫し悶々としていたのだが、ふと、あること気づいた。

科学には学問や実践といった科学そのものと、それに従事する真っ当な科学者がいる一方、闇雲に「科学だから」という呪文を信じたり唱えたりするだけの宗教とがある、と。

同じ事がオープンソースにも言える。ある有名な大学教授が、GPLv2.0で公開されているソフトウェアをオープンソースじゃないと罵倒していたのを聞いて、アホか、と思っていたのだが、この件があって、これも同じだということに気づいた。オープンソースには、開発やライセンスといったオープンソースそのものと、それに従事する真っ当な開発者や研究者がいる一方、闇雲に「オープンソース」という呪文を有り難がったり、免罪符のように掲げる宗教とがあるのだ。

オープンソースはライセンスである。これは事実だ。だからGPLv2.0は何をしても自由なのではなく、GPLv2.0のソースコードを丸コピーして、はい、Apache v2.0で公開します!などとは出来っこ無いのだ。

著作権とは、法律で保護された権利に過ぎない。だから法律で縛られるのは運命だし、とはいえ、それを変えたければ法律を変えれば良いだけの話だ。ソフトウェアが著作物として明確に認められるようになったのも、法改正があってのこと。ビルゲイツのある伝記を読んだ事があるが、その中で、彼がどこかの大学でMS-DOSをお披露目した際、生徒たちが挙って紙テープだかにコピーしまくっていたときのエピソードが載っている。詳しくは忘れたが、そのときはコピーが違法かどうかでちょっとした騒動になっていたと思う。当時はソフトウェアが著作物だという考えは、少なくとも法律上は明確ではなかったのだ。

そして著作権とは、いまこの瞬間にもこの文章にさえ自動的に与えられるものであり、 役所に申請したり、登録料を払ったりする必要もない。今この状態で、Bloggerの利用規約によれば、著作権は私にあるままであり、私はこれを特定の人にだけCreativeCommons(CC-BY ver3.0)で公開することもできるし、別な人には全く独自のライセンス条件で商用利用を許諾したりすることもできる(それがBloggerを経由すればまた違った利用形態が可能だろうが)。

ソフトウェアの中にはGPLと商用ライセンスのデュアルライセンスを敷いて、オープンソースの普及とビジネスの両立を狙ったものも少なくないと思う(実際数えたわけではないが、今時は珍しくないはず)。

私が取りかかっているあるプロジェクトは、まだおぎゃあと泣いたか泣かないかという位置にいて、目指しているのは超オープンソースなものだ。超というのは自分の無知で身勝手な感覚上の問題なのだが、それは、今までのオープンソースプロダクトには恐らく備わっていなかっただろう機能を備えるつもりだからだ。

だがこうして宗教、あるいは利己的なプロパガンダを目の当たりにすると、自分が思っているオープンソースとは、実はフリーソフトウェアのほうが近いのではないか、という気がしてきている。つまり、GPLというか、コピーレフトだ。コピーレフトと言っても、Classpath例外のように、何処までがリンク範囲になるのかという問題もあるので、一概には言えないが、MITライセンスのような比較的緩いライセンスは、ソースコードが付いている無料のソフトウェアというニュアンスをより強く感じる。Windowsの時代からベクターのようなサイトで一般に「フリーウェア」と呼ばれるバイナリは沢山公開されてきたが、ソースコード付きというのは少ない。

ソースコード付きのフリーウェアが良いとか悪いとかではなく、何故ソースを公開するのか、ということだ。私の場合、純粋に面白いソフトウェアを作りたいだけであり、その「面白さ」の中には、「すべてが見えることが重要」という要素と、「未来永劫続いていきますように」という要素が含まれている。だから、すべてが見えないソースやデータがあってはならないのではないか。そんな気がしてきている。

宗教とは何かを他人に向けてどうこう言う、そんなおこがましいことをするつもりはさらさらない。だが自分が言う宗教とは、「教祖がいて、信者がいる。」というもの。科学であろうと、オープンソースであろうと同じ事。教祖を祭り上げ、入信させようと勤しむアホどもがウヨウヨしているが、中でも最悪なのは、それが金目当てな輩。単なるフリー商法をオープンソースという呪文で包み込み、人の目を眩ますのだから。

プリンスの歌に、辞書で引くとことわざとしても載っている、「輝くものすべてが金とは限らない」という一節があるが、 逆の意味で使うなら、金より大事なものがある。そして、故に、それは金より光り輝いているのだ。

フリーソフトウェア財団のGNUもGで始まるが、Goldではない。そしてGoldより遥かに光り輝いている。ただしそれは、見る角度や場所、時間、そして時には天候によっても違ってくる。金冠日食のように。




7th

ぱっと適当に弾いたコードが何か7thくさいなあと思って音を辿ってみたらC7だった(E,G,B♭,C)。色んなキーで弾いているとだんだんコードのらしさが分かってくる。歩みは鈍いけど。

2012年5月12日土曜日

フォレストガンプとエイリアン4

目といえば知性が漂う器官だと思う。アカデミー賞をとったフォレストガンプだが、トムハンクスの目は知性が溢れすぎていて、役どころとしては外していると思う。適役は、エイリアン4の子供エイリアン。人間とのハーフ。あの目は誰の目だろう?

さて、フォレスガンプをエイリアン4で置き換える動画の加工はきっと難しいと思う。しかしこの先、Unityのようなアプリケーションで映画が仮想的に作られるようになれば(すでになっているのかもしれないが)、キャラクタの置き換えは自由自在。

断っておくが人間の役者による実写映画と張り合おうなんて、菊地先生のお言葉を借りれば、「1ミリも」思ってない。