2012年6月23日土曜日

千と千尋の神隠しとGoogle


今思いついたのでmemo。

Googleのデザインが酷すぎるのは「わざと」だ、と長年疑ってきていて、今も継続中なのだが、去年のとある日とある方に、まさにその通りだという話をGoogleの中の人が言っていたという話を聞くに至ってさらに、その確信を深めたのだが、ダメなものを蔓延させることで、それを正と思い込ませ、想像力を奪い、家畜化せんとする。それが彼らの戦略ではないか。 そう勝手に思い込んでいたら、千と千尋の神隠しの冒頭のシーンで、どうみてもホワイトカラーで教養の高そうな夫婦が、餌につられて豚になっていくシーンが思い浮かんだ。

映画のシーンといえばもう一つ、memoっておくべきことがあった。

「ウォール街」の続編である。

この映画の中で、自分の子供を食う悪魔かなにかの肖像画が登場する。最初このシーンを観たときは、単にその登場人物のキャラクターをより印象付けるためだと短絡的に思ったのだが、WOWOWで何度も再放送を観ているうち、それは自分を含む、現代人全てを指しているということに気づいた。

我々は、子孫へ残すべきものを、食い荒らしている。

異論のある人もいるだろう。しかし、私を含む大半は、この世のリソースを、この先1000年以上もの間、今と変わらぬ、あるいはより豊かに、我々人類を取り囲んでいるはず、だとは、到底思えない中で暮らしていることを知っている。

確かに未来は予測不可能だ。しかしそうなってもおかしくない、いやそうならないほうがおかしいという状況にあることを、様々な調査結果や身近な現実、そして世界中のメディアを通じて知っているのは間違いない。

そうでありながら、1000年もの行く先を案じて、今からどうしたら資源を残していけるのか、誰一人考えてない、と言っていいほど、大多数が考えていない、と思っている。

私は間違っているだろうか?

私は、未来の子供たちを、食い物にしてはいないだろうか?

そしてもう一本。今日、寅さんをWOWOWでやっていた。ちなみに事実をmemoしているだけで、WOWOWと私は、今のところせいぜい番組にクレームを何度かつけたちょっと嫌な客であり、いつか買い取って、その素晴らしいコンテンツをいつでもどこでも好きな格好に加工して観れる文字通りのライブラリにすることを夢見られている程度の間柄でしかない。

その寅さんが最近、実に味わい深く観れるようになってきた。寅さんの年は知らないが、きっと自分も年齢を重ねて、近いかその上の世代になってきたからだと思う。そう思うと、フィルムの色はあせても、中身は決して色あせないというのを身にしみて感じてしまう。映画は本当に素晴らしい。

2012年6月16日土曜日

パードン木村 * 椎野恭一 という世界一のデュオ

何をどう書いていいのか分からないので何も書かないでいるのだが、それにしても何にも書いてなかったか?一言も触れてなかったか?という状態なので、これだけは書いておくべき。

先月(2012/5/26)、約1年ぶりに「パードン木村椎野恭一」を観させて頂いた。場所は横須賀にあるかねよ食堂という海辺のcafe。

この演奏の直後、真っ先に浮かんだ言葉が、

「世界最高。」

ぜひともワールドツアーをやってほしい、いや、自分がプロモーターとなって実現したい。

次、6/24(日)横浜  GrassRootsでまた演って頂けるとのことだが、時間が14:00からという、真昼の決闘なので、また違ったテンションで観ることができる。いや本当嬉しい。ありがとうございます!


パードン木村さんの素晴らしさは、何と言ってもその音その物にある。アナログシンセから繰り出される音、それはおかしな言い方だと思うかもしれないが、実に生々しく、アコースティックなのだ。

「生シンセ」

そういう表現がぴったりだと思う。初めて聞いたときは、とにかくぶっ飛ぶばかりで、何がどういいのか自分でもさっぱり分からなかったけど、2度3度とライブを観るうち、音が決定的に違うことが分かってきた。もちろん最後の必殺技、シンセをぶっ壊すっていうのもかなりオリジナリティが高い。

要するにカッコいいんだけど、さらにそのオリジナリティが高くて、そこにいる価値を目一杯高めてくれる幸福感といえば良いのだろうか。そしてそれは、椎野さんのドラムと交わると、さらに絶対的な高揚を呼び起こす。

椎野恭一さんの素晴らしさも、やはり音にある。しかし問題は、椎野さんの音が、ドラムだということだ。

「歌うドラム」

そういう表現がぴったりだと思う。その1つ1つの音に詰まった何かが、無類の音を生み出している気がしてならない。名うてのドラマーの音が金箔なら、椎野さんの音は金(Gold)そのものだ。厚みとか重厚感とか、そういうことではない。もっと根本的な「本物感」。

時に咆哮のようなスネアの迸り。深海に吸い込まれていくかのようなバスドラ。 あとはうまく表現できない。百聞は一見にしかずというが、とにかく一度聞いてほしい。

このお二人のライブが小さな箱で間近に観れるのも、世界的に有名になる前の今のうちだよ!

ペン大 第23回

2回休みの後。今日は初めて遅刻。きっと遅れて始まるとは思っての余裕の行動だとはいえ、電車の乗り継ぎが悪かったりもして、。

さて今日は、MR−2とiPhoneの録音比較をするという仕事もあったのだが、遅れて行ったせいもあってセッティングがうまくできず、iPhoneのほうはすっかり入力レベルオーバーな上に籠りまくり、完全に対象外になってしまった。

そんな中、MR-2もセッティングが悪く、籠もり加減ではあるものの、さすがにクリアな音。籠っているのにクリアとはおかしな表現だが、音の粒がはっきりしているというか、そんな感じ。

ただスピーカーから出ている音とはいえ、序盤モノラル(右側のスピーカーからしか音が出ていない)なこともあってか、臨場感が若干薄いかな。まあそれは腕のせいが大きい。あ、途中で、今、モニタしながら聞いてると、いきなり左スピーカーが生きた途端、ちゃんと広がりが出てきた! おお〜すごい!

MR-2に(ヘッドホンを)直接差して聞くと、CD900STのほうがMarshallより聞きやすい。ここはさすがモニター用か。

とは言え、事前にテスト録音しないといけない=取った音を再生して確認=周りが割と静かな環境じゃないと無理?ということで、もしこれでライブ録らせてもらえるようなら、結構期待出来るものの、腕がついて行かず、みたいな事態になってしまうかも。

さて、自分的に曲/アーティストの分からない曲での、しかも全然入ってこないタイプの曲で、"ん〜"という感じの曲だったのだが、曲を採るのに何度も聞いてたせいか、良いんだか悪いんだか、オシャレな曲に思えるようになってきてしまった。

「嗚呼、順応性よ。」

で、まずキーがC♯マイナー。転調してるように聞こえたけど先生曰く「ワンキーですね」ということで。ただ2番?に入るとき、イントロに戻ってくるのだが、1番の終わりからイントロというつながりで聞くと、明らかに出だしキーが違うように聞こえる。実際イントロはDなので、C♯には無い。しかしこれは転調という程ではなく、これについては”後のお楽しみ”とのことで、どういうことなのかは後回しになった。

分析=耳コピーでコードとメロディを採るってこと(今のところは)

分析には、曲をどう感じたかを2小節ぐらい(曲の流れにもよるとは思うが)で区切って押さえることがまず大事らしい。実際その単位で生徒の人気を取ってみる。といっても「好いか悪いか」ではなく「好いか普通か」の二択なので、この曲に対し聞く耳持たない状態の自分には手を挙げるところがない。しかしそれも憚られたので、歌の入りだけ「好い」に手を挙げた。

なぜ好いとしたかといえば、2拍休みから入って、歌がちょっと遅れ加減で入ってくる感じが、いいんじゃない?と思ったので。それに、この歌の遅れ加減っていうのは、3拍目Eに対してD♯→E(タラッという感じ)で葉一っている(D♯はパッセージ)ので、さらに重心が後よりになって、ちょっと小洒落た感がするのだ。

実はそれより、最初に書いた曲がもう一度イントロに戻ってくるところ、ここがまあまあいい感じ聞こえる。転調してると思える程のズレ感がいい。だから、繰り返し聞くとちょっと効いてくる、そういう作りなのかもしれない。だがアンケートはこの前で終わってしまったので、残念ながら挙手出来なかった。

(追記6/18)今日になってもう一度音を取って確認してみる。ベースはD→Eって行くのは良いんだけど、上のシンセはC♯→B。ベース主体で見ると、D(△7)→たぶんE(7)だからそこを見るとキーはF♯mな感じだけど、単にベースがD→Eなだけか。それと歌に入る直前のBが長く後ろにEっぽいのが被っているのでメジャーっぽくなっている。イントロのシンセの単音:C♯、D、Bは、C♯mスケールにもF♯mスケールにも入っている。

最後にメロディを取って、みんなの支持が高かったところが9thだということが分かってヤバいという話に(追記:後で確認すると、最後に質問が上がってここも9thだと言っていたところは11thというかF♯。この適当さが好い)。

でも自分にはテンションというよりパッセージ的な感じ。ただそれがテンションの1つの役割だよということならいいのかな。まだテンションは習ってないで、テンションの話が出たときに覚えていたら聞いてみよう。


ということで、「”転調の意味がよく分かってない”ということが分かった」回だったが、ん〜イントロ、特に2回目はやはり転調でいいのでは?とオレ解釈しておく。


それにしてもMR-2、いまずっと講義を聞きながら書いているけど、音良いわやっぱり。疲れない。やっぱり粒がいいって感じ。それ以上うまく説明というか表現出来ないけど。これで籠もりが取れたら完璧だよね。さーてどーすっかなー。というかどうしたら良いの?

それと全編通してコードを採りながら実際弾いてみましょうとなったのだが、トライアドってこともあり、C♯mのスケールが何となく分かるので恐怖感もなく、実際トライアドを拾うまで時間かかったものの、最終的には全体的に弾けたというのも意外な事実。自分で自分に驚いた。でも高校生のとき、いきなりブラスバンドで弦バスを弾かされたときも、個人練習では全然だめだったけど、無理矢理一緒に音合わせすると、だんだん弾けるようになったもの。大勢で弾くというのは何か効果がある。

さて、今日の朝、犬と散歩していると、何気なく授業のことが思い起こされてきて、 ビフォーアフター、ペン大以前以後で比べると、いや、憂鬱と官能を教えた学校TVの前後、つまり菊地成孔さんを知る前後で、物事は大きく変わっているという、そういうことの認識をまた新たにした。

そういう話をすると、パードン木村*椎野恭一のスーペリアルライブが観れたという素晴らしいこともあるし、おおそうだっった、ラリーグラハム師のステージのその師の5mm隣に立って間近にあのスラッピングを観ながら踊ったという奇跡もあったね。

(2012/7/4追記)(2012/7/15バックコードをバックトラックに修正)
実際にmemoしたのはもっと前だが、歌が入ってくるところ、バックコード(という言い方が正しいかどうかは分からない)トラックはC♯m→Bの繰り返しで完全にマイナー基調だが、歌は・・D♯E-,B,B,C♯-G♯A-(・・シドッソッソッラーミソー)で完全にメジャー基調。ところが続くC♯C♯C♯D♯-C♯-A-AC♯AはC♯mっぽい。この辺が先生曰く『マイナーかしら?』というメジャーかマイナーかはっきりしないところだと思う。その後、コーラス部分(Bパート)のBAG♯F♯もEメジャーっぽく聞こえる。で、イントロが、よく見る(聴く)と、DC♯C♯.C♯.C♯.C♯.C♯- .. ABDC♯、ベースがD,..E,..なので、やはりF♯m、なのではないかと。そこから歌がEメジャーかC♯mか微妙(歌メロはE、バックコードトラックはC♯)。それとコーラス部分もEメジャーのようで、音自体はE♯mスケールと被っている部分だけを使っているのもわざとなのかどうなのか。E♯m(A)とC♯m(E)は4度違いなのでE♯mのファ(ドから読めばラ)が半音低いだけ(4度違いはCメジャーとFメジャーを比べると分かりやすい)。で歌に入る直前のバックコードがB、これがまた曲者で、Eメジャーというかメジャー感を強調している。

2012年6月1日金曜日

ウィルスから見た人間

自分が作ったものが世の中に蔓延すると、ーそしてそれがあらゆる物に付着し、避け難い物であればある程ーそれを避けようとする少女が現れ、「これじゃまるでウィルスだね」と言う。

ウィルス、か。

そこでふと思いついたのが、ウィルスって人をどう思っているのだろうか、ということ。

ウィルスに思考など無いと思うならそれでもいい。そもそも思考なんて、辿って行けば素粒子に行き着くものの間の作用でしかない。 例えウィルスの活動を「人間的」思考と結びつける事が出来なくても、そこに思考はある。

そう定義した上で、ウィルスが人間を始めとする被感染者に危害を加えたとして、ウィルスは何を思うのか。

例えばウィルスが楽しいと思ったとしよう。だとしたらそれは何故だ? 感染することで、ウィルスは何らかの安定状態を得て安堵するのだろうか? あるいは少しばかり大きくなり、得意になるのだろうか? あるいは自分より遥かに物理的に巨大な塊を倒すことに快感を覚えるのだろうか? おそらく最後のは無い。ウィルスにはそれを感じることが出来ない、言い換えれば、その事態を知る事が出来ないだろうからだ。安堵したり得意になったりするのは、自分に直接繋がった部分であるから、それを感じたり知ったりすることは出来るだろう。

そして一向に減らないウィルスの「数」だが、彼らは何処に生息しているのだろうか。そしてその数は人間と比較してどうなのだろう? 無論、重さで比較すれば全人類の合計のほうが重そうではあるが、インフルエンザだけでも色んな種類が毎年季節になると猛威を振るうのだから、相当な数が密やかに、しかし大量に生息しているに違いない。

意外と地球を支配しているのは彼らの方かもしれない。


2012年5月29日火曜日

APIの著作権

最近、APIの著作権について問題になっている。

CPUの命令セットは著作権保護の対象になっている。ならばAPIも同じではないか。ところが、APIに著作権を認めると、それを呼び出すにも許可が必要になるからダメだという説があるようだ。だがCPUの命令セットを呼び出すプログラムが、CPUの命令セット著作権を侵害しているなどという話は聞いた事が無い。これは話をもっと分かりやすくすると、どういうことなのだろうか?

こういう説明はどうだろう。ウェブサイトのデザインについてだ。ウェブサイトのデザインは当然著作権保護の対象だ。疑問の余地はない。あるサイトAのデザインを丸コピーして、会社名だけ変えたぐらいでは、侵害は免れまい。しかし、サイトAをウェブブラウザで閲覧することは禁止されていない。というか、厳密にはサイトAの許可が必要なのだが、インターネット上にただ置いてあって、誰でもブラウザでアクセスすれば見れる状態にしてあることは、許諾しているも同然だと見なされているのではないだろうか。詐欺サイトのようなところが、うちのサイトを見たから5万円よこせ、とかいうのは、サービス利用料のようなものであり、それはまた別な法規制で排除されてきている。では詐欺サイトが閲覧者を著作権侵害で訴えることは出来るのだろうか? 「俺はただ文書を置いただけで、見せるとは言ってない。」そんな理屈は通らないだろう。場所が場所だけに。

つまり、デザインは保護されているが、それを著者が自分から見せている以上、見る事に対する著作権侵害はないのではないかと思う。

従って同様に、仮にAPIに著作権が認められたとしても、アプリケーションに対して公開されているAPIを実際に実装したプログラムを、公開されている方法でアクセスするプログラムが、著作権侵害になるとは思えない。

それから、FSFのAPI保護に関する声明を、我が物のように流用する輩がいるようだが、そういう奴らは、ソフトウェア特許を放棄しようなどとはしていない。都合の良いところだけ、FSFを持ち上げ、自分たちの利益にせんとするだけ。浅ましさここに極まりけり。

例えばWebAPIを提供している人達は、その著作権が認められず、クローンが作られてもいいと思っているだろうか。Twitterに聞いてみよう。


2012年5月20日日曜日

科学という名の宗教、オープンソースという名の宗教

この前不覚にもTVを見ていたら、ある学者の肩書き?を持つ人が「私は科学を信じるのね」というのを聞いて、アホか、と思った。何だろうこの違和感、と思って暫し悶々としていたのだが、ふと、あること気づいた。

科学には学問や実践といった科学そのものと、それに従事する真っ当な科学者がいる一方、闇雲に「科学だから」という呪文を信じたり唱えたりするだけの宗教とがある、と。

同じ事がオープンソースにも言える。ある有名な大学教授が、GPLv2.0で公開されているソフトウェアをオープンソースじゃないと罵倒していたのを聞いて、アホか、と思っていたのだが、この件があって、これも同じだということに気づいた。オープンソースには、開発やライセンスといったオープンソースそのものと、それに従事する真っ当な開発者や研究者がいる一方、闇雲に「オープンソース」という呪文を有り難がったり、免罪符のように掲げる宗教とがあるのだ。

オープンソースはライセンスである。これは事実だ。だからGPLv2.0は何をしても自由なのではなく、GPLv2.0のソースコードを丸コピーして、はい、Apache v2.0で公開します!などとは出来っこ無いのだ。

著作権とは、法律で保護された権利に過ぎない。だから法律で縛られるのは運命だし、とはいえ、それを変えたければ法律を変えれば良いだけの話だ。ソフトウェアが著作物として明確に認められるようになったのも、法改正があってのこと。ビルゲイツのある伝記を読んだ事があるが、その中で、彼がどこかの大学でMS-DOSをお披露目した際、生徒たちが挙って紙テープだかにコピーしまくっていたときのエピソードが載っている。詳しくは忘れたが、そのときはコピーが違法かどうかでちょっとした騒動になっていたと思う。当時はソフトウェアが著作物だという考えは、少なくとも法律上は明確ではなかったのだ。

そして著作権とは、いまこの瞬間にもこの文章にさえ自動的に与えられるものであり、 役所に申請したり、登録料を払ったりする必要もない。今この状態で、Bloggerの利用規約によれば、著作権は私にあるままであり、私はこれを特定の人にだけCreativeCommons(CC-BY ver3.0)で公開することもできるし、別な人には全く独自のライセンス条件で商用利用を許諾したりすることもできる(それがBloggerを経由すればまた違った利用形態が可能だろうが)。

ソフトウェアの中にはGPLと商用ライセンスのデュアルライセンスを敷いて、オープンソースの普及とビジネスの両立を狙ったものも少なくないと思う(実際数えたわけではないが、今時は珍しくないはず)。

私が取りかかっているあるプロジェクトは、まだおぎゃあと泣いたか泣かないかという位置にいて、目指しているのは超オープンソースなものだ。超というのは自分の無知で身勝手な感覚上の問題なのだが、それは、今までのオープンソースプロダクトには恐らく備わっていなかっただろう機能を備えるつもりだからだ。

だがこうして宗教、あるいは利己的なプロパガンダを目の当たりにすると、自分が思っているオープンソースとは、実はフリーソフトウェアのほうが近いのではないか、という気がしてきている。つまり、GPLというか、コピーレフトだ。コピーレフトと言っても、Classpath例外のように、何処までがリンク範囲になるのかという問題もあるので、一概には言えないが、MITライセンスのような比較的緩いライセンスは、ソースコードが付いている無料のソフトウェアというニュアンスをより強く感じる。Windowsの時代からベクターのようなサイトで一般に「フリーウェア」と呼ばれるバイナリは沢山公開されてきたが、ソースコード付きというのは少ない。

ソースコード付きのフリーウェアが良いとか悪いとかではなく、何故ソースを公開するのか、ということだ。私の場合、純粋に面白いソフトウェアを作りたいだけであり、その「面白さ」の中には、「すべてが見えることが重要」という要素と、「未来永劫続いていきますように」という要素が含まれている。だから、すべてが見えないソースやデータがあってはならないのではないか。そんな気がしてきている。

宗教とは何かを他人に向けてどうこう言う、そんなおこがましいことをするつもりはさらさらない。だが自分が言う宗教とは、「教祖がいて、信者がいる。」というもの。科学であろうと、オープンソースであろうと同じ事。教祖を祭り上げ、入信させようと勤しむアホどもがウヨウヨしているが、中でも最悪なのは、それが金目当てな輩。単なるフリー商法をオープンソースという呪文で包み込み、人の目を眩ますのだから。

プリンスの歌に、辞書で引くとことわざとしても載っている、「輝くものすべてが金とは限らない」という一節があるが、 逆の意味で使うなら、金より大事なものがある。そして、故に、それは金より光り輝いているのだ。

フリーソフトウェア財団のGNUもGで始まるが、Goldではない。そしてGoldより遥かに光り輝いている。ただしそれは、見る角度や場所、時間、そして時には天候によっても違ってくる。金冠日食のように。